恭仁宮跡(山城国分寺跡)・・・♪

今からおよそ1300年前 木津川右岸 瓶原(みかのはら)に

「恭仁宮(くにのみや)」が造られ わが国の首都となりました。

この場所は 天平12年(740)12月15日に 聖武天皇が「恭仁宮に幸す」と

宣言して平城京(奈良市)から遷都してきたところで

恭仁京(くにきょう)と呼ばれました。


くにきょあと



恭仁京は 現在の京都府木津川市加茂町に位置します。

恭仁京は京都なんです♪

昨年の京都検定2級の問題にも出題されたところなので見学にきました。


ぱねる


当時 たびたび疫病や戦乱に見舞われ 世情不安の中

こうした事態を打開するためか、聖武天皇は各地を転々とした後、

天平12年(740)12月15日 平城京から遷都されました。


せきひ1


相楽が選ばれた理由として左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の

本拠地であったことが指摘されています。

天平9年(737)朝廷の政治を担っていた 藤原四兄弟が天然痘の流行に

よって相次いで死去しました。代って政治を担ったのが橘諸兄でした。

「万葉集」には 新しき都をほめる歌が収録されています。


いしべい


・・・三香(みか)の原 布当(ふたぎ)の野辺を 清みこそ 

   大宮ところ 定めけらしも(1051)・・・

・・・咲く花の 色は変らず ももしきの 大宮人ぞ たち変りける(1061)・・

このように新京を詠んだ歌には 季節によって移ろう景観の美しさや

「泉川」と呼ばれた木津川の清流に心ひかれたものが多いようです。



き


恭仁京の中心には 天皇の住まいや国の行政官庁が入っていた

恭仁宮が設けられ宮の中央に国政をつかさどる建物が配されました。

そこには平城宮から移築された大極殿がそびえ 天平の甍(いらか)が

輝いていたのです。

現在 恭仁小学校の裏にある土壇が恭仁宮大極殿の跡で 昭和51年(1976)

京都府教育委員会によって発掘調査が実施されました。


しょうがっこう
 ★明治時代初期からの140年近い歴史を誇る小学校です♪


恭仁宮はわずか5年余りの短命な都でしたが この大極殿をはじめ

恭仁宮の中心部はのちに山城国分寺として再利用されました。


やましろこくぶん


大極殿(国分寺金堂)跡の東側は 国分寺の鎮守社として祀られていた

御霊神社(ごりょうじんじゃ)の境内地だったところで 永年地域の

氏神として信仰を集めていた杜(もり)には楠や椿が繁茂して

大極殿跡とともに歴史的な景観を保っています。


やしろ


恭仁宮跡の発掘調査は 昭和49年(1974)より京都府教育委員会によって行われ

平成8年(1996)には宮域が確定しました。

恭仁宮はあっという間の都でしたが 国分寺・国文尼寺建立の詔(741年)

大仏造立の詔(743年)・墾田永年私財法(743年)の発布など

歴史上重要な役割を担いました。

七重塔礎石も残っていますよ


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プロフィール

ユキコ

Author:ユキコ
愛犬ポメラニアンのベルが大好き(2007年10月に天使になりました) 12年間勤めたDTP(印刷の前工程である版下制作)の会社を辞めた後、京都観光に興味を持ちました。そして第8回京都検定2級、第9回京都検定1級を合格しました。生まれ育った大好きな京都をご紹介いたします♪

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